大判例

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東京高等裁判所 昭和62年(う)1511号 判決 1988年5月31日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役八月に処する。

原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人山崎康雄が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官久保裕が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

一  事実誤認の論旨に対する判断

所論は、原判示第一の事実に関する事実誤認の主張であって、要するに、本件の具体的事情のもとでは、駐車している被告人の普通乗用自動車の直前の死角圏内に、Aのような泥酔者が寝転んでいるといった事態はほとんどあり得ないことであるから、このような事態についてまで予見すべきものとして、被告人に、同車を発進させるに当たり、乗車に先立って、その直前の安全を確認すべき注意義務を怠る過失があったと認定した原判決には、事実の誤認がある、というのである。

そこで、原判決の挙示する関係各証拠をみると、被告人は、本件当日の午後九時ころに、東京都江東区森下五丁目二〇番一号先の商店街を通る幅員一六・六メートルの車道の左側端に、左ハンドルの普通乗用自動車を白河方面に向けて駐車したこと、右車道の左側には、幅員二・七メートルの歩道があり、右車道と歩道とは、断続する植込み及び高さ〇・八メートルのガードレールにより区分されており、被告人が駐車した辺りは、植込み等の切れ目に当たるうえに、駐車地点から約七メートル前方には横断歩道があること、右駐車地点の近くの歩道わきには数軒の飲食店があり、被告人は駐車後その一軒の行きつけの焼肉店で、当時の勤務先の同僚三人と飲酒し、午後一〇時三五分ころ、うち一人を伴って同店を出、前記の駐車していた同車の後方から、その左側を通り、折から小雨が降っていたため、急ぎ足で運転席に直行するとともに、右側助手席にその同僚を乗り込ませ、運転席から見える範囲内の前方を確認しただけで、同車を発進させたこと、他方Aは、夕刻からかなりの量の日本酒等を飲んで相当にめいていし、午後一〇時前ころ自宅に電話したことまでは確認されているものの、その後の行動は明らかでないが、いずれにしても、被告人が前記のとおり発進させた時点までに駐車中の被告人車の運転席からみて前方死角圏内の車道上に寝転んでおり、発進してきた被告人車と、路面との間に巻き込まれるという本件事故にあったことが認められる。

右に認定した時間的・場所的状況のもとにおいては、正体を失った泥酔者が、歩道や歩道わきの車道などに寝転んでいるといった事態は、決してまれなこととは認められず、駐車中に、停止したときには存在しなかった右のような泥酔者や人の死傷をもたらすおそれのある障害物が、自動車の直前などに存在するに至っているかも知れないおそれが多分にあるわけである。従って、本件のように、夜間、近くに飲食店などのある道路に駐車中の自動車を発進させる自動車運転者には、泥酔者や人の死傷をもたらすおそれのある障害物が自動車の直前などに存在するかも知れないことを予見し、これとの接触、衝突などの不測の結果を招かないように、乗車前に、自動車の直近周辺はもとより、運転席からみた前方死角圏内の安全を確認した後乗車して、自動車を発進させるべき注意義務があるものといわなければならない。

ところが、被告人は、少しく歩を進めて自車の直前を一べつするなどの、一挙手一投足の労をもって足りる乗車前の右安全確認を怠り、前記認定のように、乗車後に運転席から見える範囲内の前方を確認しただけで、そこからは見えない自車の直前に、右のような障害物はないものと速断し、これを発進させて本件事故を招いたものであって、過失責任を免れない。

原判決も以上と同旨の理由により、被告人の過失を肯認したものであって、所論にかんがみ記録を精査し、当審における事実取調べの結果に徴して検討してみても、原判決に所論のような事実の誤認があるものとは認められない。論旨は理由がない。

二  職権判断

1  原判決は、罪となるべき事実の第一として、「被告人は、昭和六二年八月七日午後一〇時三五分ころ、業務として、東京都江東区森下五丁目二〇番一号先路上に停めておいた普通乗用自動車に乗って白河方面に向け運転を開始するに当たり、一時間半くらい自車から離れており、運転席から前方を見ても死角の部分があって、酩酊者等が右死角部分に入り込んでいるおそれがあるから、乗車に先立ち自車直前の安全を確認した上、発進すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠って乗車し、乗車後に前方の確認をしただけで自車直前に人はいないものと軽信して発進した過失により、折から自車前方約二・五五メートルの路上に酒に酔って横臥していたA(当時三四歳)に全く気付かないまま同人を自車の底部と路面との間に巻き込んだ上、同日午後一〇時四〇分ころまでの間、同所から同区大島一丁目一四番一〇号先路上まで約二・二キロメートルにわたり、時速約四〇ないし五〇キロメートルの速度で同人を引きずりながら走行し、同人に骨盤骨折等の傷害を負わせ、よって、同月八日午後一時五〇分ころ(午前一時五〇分ころの誤記と認められる。)、東京都墨田区江東橋四丁目二三番一五号東京都立墨東病院において、同人を骨盤骨折及びこれに伴う後腹膜下出血により死亡させたものである。」との起訴状記載の公訴事実第一とおおむね同様の事実を認定し、これを刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するものとして処断している。

ところが、同判決の掲げる関係各証拠によると、被告人は、右の発進直後から、ときどき車体の下の方でがさがさというような音がするのを聞き、車体の揺れを感じ、又車輪が滑るような感じを抱いていたので、発進地点から約一・八キロートル進んだ東京都江東区大島一丁目三五番七号の大島一丁目バス停留所前路上付近に停止して下車し、自動車の下をのぞき込んで見たところ、車体の下部に、頭を前輪の方に足を後輪の方に向け、あお向けの姿勢になっている人が引っ掛かっているのがわかり、まだ生存していることを認識していたのに、そのまま約三〇〇メートル走行して、同区大島一丁目一四番一〇号先路上に至り、同所で左側の車輪を縁石に乗り上げさせて、同人を道路上に振り落としたこと、同人は、被告人が最初に自動車を発進させたころにギャーという大きな叫び声を上げ、そのすぐ後でもギャーという悲鳴を上げていたうえに、前記バス停留所から約九メートルぐらい前記一〇号先路上によった地点に同人の肉片が落ちていたほか、前記の振り落とされた地点で同人が受けていた傷害が、約三時間後に死に至ったという程に重篤なものであったことなどからみて、前記バス停留所までの間に、同人は、傷害の部位や程度を特定することはできないが、その身体にかなりの重傷を負っていたこと、前記バス停留所から振り落とされた地点までの間でも、同人は、それまでと同じように車体の下部に引っ掛けられたまま三〇〇メートルもの距離を引きずられたので、これ又かなりの身体傷害を負ったこと、同人の死因である骨盤骨折及びこれに伴う後腹膜下出血が、右のいずれの区間の行為によって生じたものであるかは明らかでないことが認められるのである。

右の事実関係によると、被告人の最初の発進時からバス停留所到着時までの間の行為は、業務上過失傷害罪を、同所の発進時から振り落とし行為終了時までの間の行為は傷害罪をそれぞれ構成し、両罪は併合罪の関係にあるものというべきであるから、原判決が両者をひっくるめて一個の業務上過失致死罪としたのは、事実を誤認したか、法令の解釈を誤りひいて事実を誤認したものというほかはなく、右誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである。

2  原判決は、罪となるべき事実の第二として、いわゆるひき逃げの罪を認定しているが、同罪を判示するには、「人の死傷又は物の損壊」があったことを示さなければならないのに、原判決は、前記バス停留所前路上付近において、「Aを車体底部と路面との間に巻き込んでいることを認識した」ことを示しているだけで、同人が死傷したとか、物の損壊があったとかということを示していない。このことは、判決に理由を附していないものというほかはない。

そこで、量刑不当の論旨に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条、三七八条四号前段により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書に従い、当裁判所において、被告事件について更に次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一 昭和六二年八月七日午後一〇時三五分ころ、業務として、東京都江東区森下五丁目二〇番一号先の車道左側端に一時間半くらいの間駐車しておいた左ハンドルの普通乗用自動車に乗って白河方面に向け運転を開始しようとしたものであるが、右駐車地点の左側の歩道わきには数軒の飲食店があるうえに、約七メートル前方には横断歩道もあって、一時間半もの間には、自動車の直前などに泥酔者や人の死傷をもたらすおそれのある障害物が存在するに至る可能性があるのであるから、自動車運転者としては、乗車前に、自動車の直近周辺はもとより、運転席からみた前方死角圏内の安全を確認した後乗車して自動車を発進させるべき業務上の注意義務があるのに、被告人は、これを怠って漫然自車の左後方から乗車し、運転席から見える範囲内の前方を確認しただけで、自車直前に人はいないものと軽信して発進した業務上の過失により、折から自車直前約二・五五メートルの路上に酒に酔って寝転んでいたA(当時三四歳)に全く気付かないまま、同人を自車の底部と路面との間に巻き込み、同日午後一〇時四〇分前ころまでの間、同所から同区大島一丁目三五番七号の大島一丁目バス停留所前付近の路上まで約一・八キロメートルにわたり、時速約四〇ないし五〇キロメートルの速度で、同人を引きずりながら走行し、よって同人に対し、傷害の部位や程度を特定することはできないが、その身体にかなりの重傷を負わせ、

第二 同日同時刻ころ、同所において、自分の自動車運転により、同人にかなりの重傷を負わせたことを認識しながら、そのまま運転を継続して逃走し、もって、直ちに車両の運転を停止して同人を救護するなどの必要な措置を講ぜず、かつ、その交通事故発生の日時場所等の法律の定める事項を直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなかった

ものである。

(証拠の標目)《省略》

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第二の所為中、救護義務違反の点は、道路交通法一一七条、七二条一項前段に、報告義務違反の点は、同法一一九条一項一〇号、七二条一項後段にそれぞれ該当し、一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い救護義務違反の罪の刑で処断することとし、判示第一及び第二の罪について各所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第一の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で、諸般の事情、ことに本件の経過、態様、被告人の前科、本件に端を発して死亡した被害者の遺族に対して自賠責保険金が下付されたこと、被告人の方から遺族に対して三〇〇万円を支払うことで示談が成立し、その一部が支払われたこと、被告人が反省していることなどを考慮して、被告人を懲役八月に処し、刑訴法一八一条一項本文により、原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 坂本武志 裁判官 田村承三 泉山禎治)

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